「認知とは、環境世界に意味を与えるプロセスである。それは生物が外界にある対象を知覚したうえで、それが何であるかを判断したり、解釈したりすることであり、知覚情報に基づいて、過去の自分自身の経験に基づく記憶に照らし合わせ判断するプロセスを指し、それには知覚、注意、記憶、表象、象徴、言語、そして判断といった高次脳機能が統合的に関与する。これらの高次脳機能を動員し、身体を介して「知ること」が認知である。」
〜身体運動学 樋口貴広 森岡周(2008) より引用
認知と言う言葉をプロセスとし、身体を介して「知ること」が認知であるとされています。
意味を知ると言うことは意味を意識化すると言うことになります。つまり環境世界の意味を、身体を介して知るー意識化するプロセスが認知であると言うことなのでしょう。
「知覚した上で、それが何であるのかを判断する。」との表現から、「認知」が意識的なプロセスを指し、それに対して「知覚」とは無意識下のプロセスを指しているようです。
さらに、「知覚、注意、記憶、表象、言語、そして判断と言った・・・」という表記から、知覚/注意/記憶/表象/言語/判断などの言葉で表すものは、逐次的なプロセス上にあるものでは無くて並行的連続処理されている情報の様に受け取れます。
よく読むととても意味深い文章ですね。
少し話がそれますが、
人の行動を観察すると、認知/知覚/注意/表象/言語/判断といったそれぞれのプロセスには能動的な場合と受動的な場合がある事に気付きます。
言葉で表せば能動的認知/受動的認知とか、能動的知覚/受動的知覚とか言うことです。これらはすべて情報の処理過程は異なると考えても良さそうですね。
話を戻します。
とても良い文章だと思います。
ただ、やはり既存の科学的知識を基盤においておられるので「認知」というものを説明せざるを得なくなって作られた文章なのでしょう。既存の科学的知識を基盤におくからこそ説得力があるとも思うのですけれど。
「認知」という言葉を説明すると言うことは、「認知」という情報処理過程が単独で存在していることを予感させます。
このことは、「認知機能」と「運動機能」を分けて考える事になることになります。
ですので、「認知」のために「身体を介して」という認知機能と身体機能を分けたようなまとめ方になっていくのでしょう。
しかし、「認知」が意識化される事を伴う情報処理過程であるのなら、意識を定義する科学的根拠が必要になってきます。
意識の情報処理は現在研究中のようですが、少なくとも局在性はなさそうです。むしろ、脳全体が働いた際に意識が存在するという見方が有力のように感じます。
であれば、認知は身体その物です。脳が全体として働くことが必要であるのならあらゆる情報処理が含まれることになりますので、運動や行為の選択も含まれることになります。
つまり、
運動の選択や行為の選択は認知の上で成り立っているわけでは無くて、
運動の選択や行為の選択は認知を含む、或いは逆に認知は運動の選択や行為の選択を含むと言うことに帰結するのでは無いかと考えられます。
例えば上の文章の「認知」という言葉を、より具体的な探索(行動)という言葉に置き換えて見ます。
〜探索(行動)とは、環境世界に意味を与えるプロセスである。それは生物が外界にある対象を知覚したうえで、それが何であるかを判断したり、解釈したりすることであり、知覚情報に基づいて、過去の自分自身の経験に基づく記憶に照らし合わせ判断するプロセスを指し、それには知覚、注意、記憶、表象、象徴、言語、そして判断といった高次脳機能が統合的に関与する。これらの高次脳機能を動員し、身体を介して「知ること」が探索(行動)である。
意味が通じますよね。
認知=探索行動と言いたいわけでは無いです。実際にも認知と運動はイコールで結ばれるものなのかもしれないですけどそこまでの考察はしていません。
ただ、認知と身体は二元論的に語れるものでは無いと言うことと、逐次プロセス関係には無いと言うことは言えるのでは無いかと思うのです。二元論とか逐次プロセスは解りやすいですが、そこに行っては人間というものを見失う結果になるのでは無いかと思ったりします。
あくまで私見です。
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