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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

大脳基底核の不可思議な働き

1995年に発刊された「神経科学の進歩」39巻2号は、大脳基底核特集で様々な基底核に関する解剖や働きが解説されています。

彦坂興秀という神経科学者の先生がその特集の「あとがき」を書かれています。

これが、とっても興味深いのですね。

大脳基底核の働きの不可思議さを印象的な文章で書かれておられるのです。


ちょっと紹介させていただきますね。


あとがき

 

大脳基底核の障害はまず運動機能の障害として現われる。しかしその背後には“運動以前”の問題が存在する。有名な著書“Awakening”のなかで、オリバー・サックスは脳炎後パーキンソン病の患者の内面をみごとに描いてみせた。これは「レナードの朝」という題で映画化されたので、ご存じの方も多いだろう。ロバート・デニーロをはじめとする俳優たちの演技は本物以上に本物らしい。これを見るだけで「大脳基底核」の不可思議さを実感させられる。オリバー・サックスはこう書いた。「数えきれないほどの患者が僕にこう言う、『私が歩いているんじゃない、歩かされているんだ」、『私は歩きだすことも止めることもできない。ただじっとしているか、際限なく加速するかどちらかなんだ』」。そこには自己意識と行動の解離がある。みずからの行動はみずからの脳によって支配されるはずなのに、そうならない。そんなもどかしさは、パーキンソン病だけではなく、他の多くの大脳基底核疾患に共通のものだろう。

したがって、自分の行動が自分の意志に従っているかのように思えるのは、大脳基底核のおかげらしい。なぜそうなのかは、この特集の筆者たちが語ってくれている。キーポイントは、大脳基底核のもつ強力な抑制作用とそれを取り除く脱抑制のメカニズムである。そのメカニズムは、上丘や脚橋被蓋核などの脳幹に対して働き、また、視床一大脳皮質系に対して働く。このメカニズムの対象の違いによってコントロールされる運動のタイプは異なる。眼球運動や歩行だったり、学習された手の運動だったりする。そしてその対象として前頭連合野までを含むことによって、基底核は「意志」さえもコントロールするようになったのであろう。

そのコントロールのための情報を与えるものとして、辺縁系とその情報を受ける腹側線条体や黒質緻密部(ドーパミン細胞)が注目されている。行動を決定するときも、学習をするときも、辺縁系に特有の「快一不快」の情報が規範となるはずだから。



如何でしょう。


「オリバー・サックスはこう書いた。「数えきれないほどの患者が僕にこう言う、『私が歩いているんじゃない、歩かされているんだ」、『私は歩きだすことも止めることもできない。ただじっとしているか、際限なく加速するかどちらかなんだ』」。そこには自己意識と行動の解離がある。」


大脳基底核の障害で、自己意識と行動が乖離してしまうとのことですね。

大脳基底核の制御は、必用な行動を選択して不必要な行動を抑制したり、必用な運動を選択して不必要な運動を抑制したりすることが知られていますよね。

意志が存在していて、その意思が行動を制御するという一般的な理解からすると、

大脳基底核は必用な行動を選択して不必要な行動を抑制したり、必用な運動を選択して不必要な運動を抑制したりすることが知られています。


大脳基底核の回路


ですので、意志が基底核を制御している神経回路網などのつくりになっていれば、大脳基底核損傷によって意志が基底核の働きに伝わらずに適切な行動制御や運動制御が困難になっている状況、つまり歩行したいと思っても歩行運動につながらないとか、歩行を止めようと思っても際限なく加速していくような状況になると理解できます。ここに矛盾は生じないですよね。

しかし、大脳基底核の回路網を見てみると、現在のところ意志と言われる情報を受け取る回路は特定されていません。まぁ、意志と云われる情報を作り出す回路は、いまだ特定されていないのではありますけれど。

寧ろ、大脳基底核は意志と言われる情報の入力がなくても、様々な身体外環境情報と身体内の様々な体性感覚情報、そして情動や記憶などの情報の中で無意識下に必用な行動や運動を選択し、必用ではない、或いは起こすべきではない行動や運動を抑制するという機能を持っているわけですから、まぁ、簡単に言えば、(一般に云われている)意志とは関係なく様々な状況に依存して行動や運動を制御していることになるのです。

と言うことになると、大脳基底核の障害によって環境などの情報に対して適切な行動としての歩行が開始できない、或いは、適切な行動として歩行を止めるという事が出来ずに延々と歩き続けてしまっているだけと言う事になります。

こういったことを考えると、そもそも大脳基底核自体が環境情報などで無意識に行動を選択しているのですから、意志や意識が行動を制御しているわけではないのに適切な行動・運動選択が出来ないという事実に対して、なにかしらの理由が必要になるので、「自己意識と行動が(大脳基底核の障害のため)乖離してしまう」と感じてしまったり、思ったりすることになるのではないかと私は推測するのです。


彦坂先生は、

「したがって、自分の行動が自分の意志に従っているかのように思えるのは、大脳基底核のおかげらしい。〜中略〜このメカニズムの対象の違いによってコントロールされる運動のタイプは異なる。眼球運動や歩行だったり、学習された手の運動だったりする。そしてその対象として前頭連合野までを含むことによって、基底核は「意志」さえもコントロールするようになったのであろう。」

と書かれておられます。

自分の行動が自分の意志に従っているように思えるというのは、彦坂先生も意思が行動を制御しているわけではないと理解されているのだろうと言うことが垣間見える表現ですね。

そして、基底核は「意志」さえもコントロールするようになったのであろうと表現されているところも面白いのです。

基底核が意志をコントロールしているという事は、自由意志は無いという事になりますが、意志そのものの存在はあるわけです。

そして、基底核が前頭連合野とのループ構造の中で行動決定を無意識下に行っている訳ですので、意志そのものは無意識であるという事になります。意志を意識化できるのはその後という事ですね。


これは、受動意識仮説ですね。


基底核が無意識下に行動や運動を決定する。上手くいったとしても上手くいかなかったとしても、その体験が報酬系の働きによって学習されて強化されたり弱化されたりするわけです。その記憶は、さらに基底核ループにバイアスをかけて、行動や運動の無意識下の決定に関わっていくわけです。


つまり、意志というのは、その人の経験の記憶と前頭連合野や辺縁系との基底核ループによる情報の取捨選択の結果であるという言い方も出来るかも知れないですね。


無意識下の意志というものを想定するのであれば、それらの情報処理を自由意志と呼んだり、心と呼んだりすることが出来るかも知れません。


結局それは言葉の定義の問題ですからね。


さて、この受動意識仮説。一般の感覚からすれば受け入れがたくて、不可思議なものなのかも知れません。

自分の意志や心というものが、自分の思っているものと違うわけですから。


ただ、優しい側面もあるのですよ。


例えば脳卒中リハビリテーションを行う中で、イライラされたり、怒りっぽくなったり、あるいはハラスメント系の行動を起こしやすい人やリハビリテーションをしたくないような人がおられても、それは実はなにかしらそういった情動や行動〜そういった情動や行動が基底核ループによって選択されてしまうことになる原因があるのでは無いかと推測するきっかけになりますし、それらを追求していく姿勢は医学という科学的分野から云えば正しいはずです。そういう問題解決方法を探る方がその対象となる方には優しいですよね。

通常の生活でも同じようなことが言えます。


こういった視点から考えると、リハビリテーションの現在の在り方なども一定の方向修正が必要になってくると思うのですよ。


個人的な意見ですけれどね。

(*^_^*)











 

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