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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

科学とリハビリテーションと脳卒中ガイドライン

先日、「セラピースペースながしま」をご利用中の左片麻痺の方が、やっと四つ這いを取ることが出来たのです。

手指の痙性が非常に強くて、手関節背屈位で手指を伸展させながら手を床につけることが出来なかったのです。

立位のバランスも徐々に改善して上肢の過活動もやっとコントロールが出来るようになってきて、やっと四つ這い。

初期はここまで上肢の痙性が出てなかったものと考えられますので、当然病院ではリハビリテーションの一環として四つ這い姿勢も経験されておられることだろうと思っていたので、「四つ這い姿勢は久しぶりでしょう?」と声をかけると、「この病気になってから初めてです、嬉しいです」とご返事を頂きました。


そういえば、マット上のリハビリテーションアプローチはあまり効果が無いとか言った無責任なエビデンスで、様々なリハビリテーション施設からプラットホームがなくなった時期があったなぁ等と思い出しつつ、最近のガイドラインではどうなっているのかなぁと言う漠然とした興味と、そもそも私、脳卒中リハビリテーションに関わるEBMについては、殆ど信頼していなかったので、現在は信頼に足るものになっているのかという疑問を解決すべく、ちょっと調べて見ちゃったりしたわけです。


ちょっとですよ。

(^_^;)


さて、エビデンスと云われるものが何をどの様に推奨したりしているのかというと、まず、エビデンスレベルというものがある様ですね。



これを見ると、まず、良質な複数RTC(ランダム化比較試験)で一貫したエビデンスがあるものが良さそうで、体系化されてないものはダメっぽいわけですね。

私など、ひねくれているところもあったりしますので、こういう文章を読むと、「良質って何をもってして良質と判断してるのだろう?」とか思っちゃったりするわけです。

そして、推奨度という判断基準もある様です。


これを見ると、有効性が確立したものが勧められていて有効性が確立できていないものは勧められないという事らしいですね。

エビデンスのレベルにせよ、推奨度にせよ、それを言うためにはなにかしらのメジャー(尺度)が必用なはずですね。

良質というにしても、何をどの様に用いた場合、どういった回復が起きたのかという研究をRTCにて研究をする必要がありますし、有効性があると判断するにしても、何がどの様に回復したから有効であるという結果が導き出されるわけですから。

そのメジャーはどの様なものがあるのでしょうか?

この脳卒中ガイドラインで推奨される評価とは何かと云うことを知りたくなりますね。


推奨される評価法は以下の通りのようです。


では、個々の評価法についてみていってみましょう。

まずは、FMAから。上肢の運動項目部分の評価表を見てみましょう。



だいぶん細かな印象もありますね。いずれも上肢の運動の主要な要素であるとは言えそうです。

しかし、脳の紡ぎ出す随意運動と言われる運動調整って、こんな感じで網羅できるんでしたっけ?

ちょっと歯磨き動作のことを考えてみます。


左の図は通常の歯磨きの姿勢ですね。

この姿勢では、歯磨きの際に肘の屈筋群と伸筋群のどちらが優位に働いているのかと考えると、屈筋群ですね。そもそも肘を抗重力的に屈曲位で維持していますし、そこからさらに口の内部に歯ブラシを動かそうとすれば屈筋群が優位になります。逆に、口から出す方向の際は重力にしたがっていく運動になりますので、屈筋群の働きと比較すれば伸筋群の働きはそこまで必用では無いと言えそうです。

ここで、口に唾液などがたまってきた際、それがこぼれない姿勢を取ったとしましょう。右の図ですね。口の中の歯ブラシの動きは歯ブラシが奥に入ったり口の外に向かったりの交互運動ですので、変化がないのですが、上肢の運動はどうでしょう。

先ほどと異なりますね。肘の伸筋群が優位に働いて肘が曲がりすぎないように働いていますし、歯ブラシの動きの制御に関しては左の図と逆に肘の伸筋群が優位に働かないといけないことになります。

これは、肘の屈伸運動という同じ運動の要素であっても、姿勢が変化すると運動出力調整は異なる必要があると言うことを示していますね。

この脳内での情報処理はどの様に行われているかを少し考えてみます。



おなじみ高草木薫先生の図ですね。見やすいので、よく使わせてあいただいているのですが、ここで書くことは私の私見です。

注目したいのはBの図です。

身体図式情報が、運動前野や補足運動野に投射されている様子が模式的に表現してありますね。これは、身体が重力環境下においてどの様な状態であるのかという身体図式情報が運動出力プログラムの選択や生成には必用であることを示していると言えます。

上肢の動きを安定させ、いかなる姿勢でも可能にしていくという運動出力調整情報処理の多様性を補償しているのはこういった脳の情報処理にあるといえるのだと思います。そうして、その運動出力調整情報処理の多様性は、運動出力パターンや行為の多様性につながっていくのだろうと考えています。

歯磨きで言えば、前を向いていても上を向いていても歯が磨けると言ったようなことですね。


それを考えた上でFMAと云う評価を見てみると、現在解っている脳の運動出力情報処理について、すべて反映しているものでは無いと言うことが言えそうですよね。

Correlation Is Not A Cause CINAC(シナク)です。

相関関係を根拠として捉えてはならないのです。


FMAの改善は脳機能の改善によるものであるという言い方は出来るとは思いますが、FMAが脳の運動機能に関わる情報処理の一部しか表現していないため、脳の運動機能に関わる情報処理とFMAは相関関係にはあるだろうと云うことになりますが、FMAの点数に変化が無いと言うことと脳機能が改善していないと言うことをイコールと捉えることは出来ないということになるのでは無いかと思うわけです。

たとえば、伸展共同運動パターンが、座位で表出できても、立位や歩行場面では伸展共同運動パターンを表出できない人がおられたとして、その人が立位や歩行場面でも伸展共同運動パターンを表出できるようになったとすれば、それは脳の機能の改善とみて良いと思うのですね。歩くときにいつもギュッと曲がっていた手を伸ばして歩いていたら、皆さん良くなったと評価するのでは無いかと思うのです。歩いているときに手を曲げていることも出来るし、伸ばしていることも出来るわけですから。多様性は拡大していることになります。

ね。

点数が変わらないとしても脳機能として改善している場合は有りそうですよね。


さて、次の評価は、NIHSSですね。



これはスクリーニングですね。ざっと重症度などをふるい分けるための評価表に見えます。意識水準や、意識障害、注視、視野、顔面麻痺などは取りあえず良いとします。

運動機能については、スクリーニングですので、簡便なものが用いられるという点では仕方が無いというか、スクリーニングテストとしては正しいのだろうと思うのですが、運動機能や失調に関してはFMAと同様なことが言えると思います。

感覚障害についてはFMAのところで書いていないので、ちょっとだけ書いておきます。

臨床的には、感覚の存在が確認でき、運動機能も悪くない割に、期待される動作が稚拙であるとか、感覚の存在が解らない割に、動作が期待以上に上手であると言ったケースも少なくありません。これは、一次感覚野に情報が届いているにもかかわらず、それらの感覚情報が身体図式情報に変換されない、或いは身体図式情報が補足運動野や運動前野に投射されるところで障害を受けてしまっているとか、一次感覚野の情報が意識化されるところに投射されていないけれど、情報処理上は身体図式を形成して運動出力プログラムを適正に選択或いは生成しているとか、そういった様々な要素が感覚と運動に関わっているわけです。

つまり適正な運動出力のためには、感覚のありなしと言うより感覚情報が脊髄や脳の何処まで上行していてどの様な情報処理をされているのかと言った情報が必要になりますので、あるなしだけを点数化しても不十分であろうと思います。

まぁ、このNIHSSはスクリーニングですのでそこまで求める評価表ではありませんから、まぁ良いのですが、これを脳損傷の回復度合いを見る評価表として考えるのはFMAで書いたのと同じ理由で不十分、若しくは危険だと思います。


3番目は、SIASですね。

これもスクリーニングテストですね。ちょっとこれだけではどの様に評価を進めるのか解りにくいので、上肢筋にテストと、上肢遠位テストの詳細を見てみましょう。



まぁ、スクリーニングですから、こんなものかという事になるでしょうか。

全体像を素速く把握して治療を展開しようとするのが目的ですから。

ですのでこれも、FMAと同じ問題をFMAより単純化させているだけにより強く内在させているという事になります。

そもそも、治療を素速く展開するためにざっとスクリーニングに用いる評価をこうした効果判定の研究に用いて良いのかどうかと云うことは、研究手法として適切か否かという研究が必要なのだと思うのです。

そういった視点から言えば、4つめのJSSも同様ですね。


こういったスクリーニングテストは、先に書いたとおり臨床上、素速く状態を把握してアプローチを行うためのツールなのだと思うのです。そういった目的には充分有用な評価法だと思います。


これまで見てきた運動機能評価について、ざっと目を通した印象をわかりやすく表現するなら、これらの検査は運動前野と一次運動野の出力情報を知ろうとしているものの、脳卒中で問題となる事の多い側頭頭頂連合野の身体および環境情報の統合と、その情報を高次運動野へに投射するシステム。高次運動野と基底核ループによる情報の取捨選択。そして、高次運動野から投射される一次運動野から身体への情報出力(背外側系)と高次運動野から脳幹に対する投射と脳幹からの体幹を中心とした四肢への情報出力(腹内側系)の協調と言った重要な部分が欠落していると言った印象ですね。

(ワカリヤスイ??(^_^;))


さて、Br-Sです。なぜかこれは別に書いていますね。(*^_^*)

これは日本では有名ですよね。

推奨されるものとしての紹介では、運動パターンに基づいた片麻痺の重症度の分類と記載してあります。

これ、ちょっと違うと思うんです。

そもそも、Br-Sはブルンストローム法を用いる際に、ブルンストローム法の治療効果を独自に判定してブルンストローム法の治療展開をスムーズに行うためのツールとして開発されたものだと認識しています。そういった意味では、一般的な脳損傷の重症度の分類に用いられるものでは無いはずなのです。私も詳しくは知らないですが、ブルンストローム法を行う際に姿勢制御がまったく考慮されなかったとは考えにくいですしね。

シグネ・ブルンストローム女史の伝記を読んだことがありますが、かなり気性の激しい人だったようです。今、ご存命でしたら、現状を見て顔を真っ赤にして怒られるのでは無いかと思います。

それはさておき、Br-Sを片麻痺の運動パターンの重症度評価に用いることは不適切だと私は思っています。


さぁ、これで運動機能に関わる評価をざっと見てきました。

次は日常生活動作ですね。

日常生活動作に関しては、FIMとBIという評価法が上がってますね。



えっとですね。

これらは日常生活動作の障害の程度を判定するものではあります。

以前ブログで紹介したのですが、障害というものの捉え方には、最低でも2つの視点がある様です。医学モデルから見た障害と社会モデルから見た障害です。

医学モデルから見た障害というのは、インペアメントレベルの問題、この場合は脳損傷ですね。脳損傷から導き出された片麻痺という病態を原因として出来なくなったこと、つまり日常生活動作に於いては、自身の身体のみで実行できなくなった動作、或いは麻痺した手や足を利用する事が出来なくなっていること自体を障害と見るわけです。

一方、社会モデルから見た障害というのは、社会の中にある制度や機器を用いると出来るものは障害ではないのです。例えば視力障害に対してめがねを使用すると視力の障害は消失するのですね。脳損傷の場合であれば、装具を使えば歩くことが出来るという事になると歩行障害はないという事になりますし、片手で更衣動作が出来れば、更衣に関して障害はないという事になるのです。

まぁ、こういったことに対して患者さん達が不便を感じていても、出来るのであれば障害はないわけです。

社会にある制度や危機で解消できない障害をインペアメントレベルの問題と位置づけるわけです。

社会モデルにおける障害というのは、私を含め、ちょっと医学を学んでいた人達にはわかりにくい概念ですが、興味がありましたら星加良司さんの「障害とは何か」という本を読んでみて欲しいと思います。


さて、このFIMやBIというのは、その評価手段を見ていくとどうやら社会モデルからの障害の評価と言えそうに思います。

道具を利用して、麻痺した手足を使おうが使うまいが、出来れば点数が上がるシステムの評価法ですからね。医学モデルの障害というものではないと言えますよね。


そういった意味では、運動に関する多様性が反映されていないですよね。

食事に関しても、椅子とテーブルを使った動作の評価であって、それは椅子とテーブルという道具があれば食事が出来るという事にしか過ぎないですが、実際は畳の上に座って食事を取ることもあるでしょうし、そういった動作の中の移動手段としては四つ這い移動や床からの立ち上がりなどは気持ちが良いほど無視された評価表です。オッカムの剃刀によって切り取られちゃったんでしょうね。

この評価表で自立と判定された方、家に帰って転ばれたりしたら立ち上がれない場合であっても、この社会モデルの評価表では障害がないと判定される可能性も在るわけです。


また、先にも書きましたが、麻痺側上下肢の動きに関しても、この評価表が社会モデルからの評価であるが故に綺麗に無視されています。

ですので、非麻痺側片側動作の日常生活訓練のみが日常生活を自立させるためのリハビリテーションの手法として推奨される危険性をはらんでいるように思います。


こう言ったことが起こりうると言うことを考えると、問題があるのでは無いかと思うのですね。

以下に3点、問題を挙げてみたいと思います。


まず1点目です。

脳には、半球間抑制作用という神経の働きがあります。

半球間抑制作用は通常でも起こる作用ではありますが、脳損傷が起きた際に非麻痺側活動〜非損傷側脳の情報処理を優位にすればするほど、損傷側脳の情報処理は抑制を受けてしまうわけです。ここから、非麻痺側片側動作による日常生活動作へのアプローチは麻痺側の回復を阻害する因子になり得るのではないかと言うことも推測が出来ます。


2点目

麻痺側の動きを運動学習させることが脳の可塑性を引き出す為には必用です。ちょっと大雑把な説明になる増すが、運動学習にはヘブ則と塚田の時空間学習則が良く取り上げられると思います。ヘブ則では実際に感覚情報入力に伴う運動出力というような情報伝達が繰り返し起こることが必要になります。塚田の時空間学習則では、多重情報(感覚)入力が重要だとしていたと思います。すると、いずれにせよ損傷側、損傷部位の残存するシナプスに対して情報の入力、或いは出力が必用であると云うことになります。つまり、脳の可塑性による回復をもたらすには、やはり損傷側への感覚入力やそれによる応答としての運動出力経験が必須であると言えます。


(アラタメテイウホドノコトデハナイカ(^_^;))


で、最後の3点目です。

非損傷車の脳の出力は筋出力の調整という意味でも、姿勢と運動の組み合わせという意味でも、動作という意味であっても、多様性のある出力反応が可能であると言うことです。

例えば、移動という課題を考えても、非損傷車は歩行自体も多様性を持っています。たとえば、跨ぐ、跳ぶ、潜る、走る、急に止まる、歩幅を調整する、スキップのような情動表現の一つとしてのステップがあるなどなど様々です。歩行以外にも座っていればお尻で歩くように位置をずらす様な動きもあります。なくし物をすれば四つ這いで床を移動しながら探すこともあるでしょう。寝ていても、ベッドの中で横にずれるとか、寝返って位置を変えるとか。場面に応じて本当に様々なパターンを出力します。

行為動作であっても、たとえ同じ服でも

床の上に座って着替える場合から、立った状態で着替えることもします。

その他の動作も同様に多様性を持ちます。

脳の情報処理では様々な環境に対して適応するために、その場面場面に適した多様性のある出力調整が可能です。

ある意味、脳損傷ではその多様性が失われ、ステレオタイプになってしまうことが問題であるという見方も可能です。

所が、FIM/BIでは、この多様性の評価が困難です。逆に、可能である一つの方法を習得する方が短い時間で点数を上げることが可能です。

医学モデルから見る障害という考え方から言えば、ここに矛盾が生じるように思います。


まぁ、社会モデルでの評価表ですので、医学モデルから見れば矛盾があるのは当然と言っても良いのかも知れませんね。


さて。

すべてでは無いですが、だいたいの評価項目に付いてみてきました。


社会モデルの障害評価という視点から言えばこれでもいいのかも知れませんね。

しかし、医学モデルからみたら、この推奨される評価法は脳損傷患者さんの回復を図るメジャーとしては不十分なものであると考えても良いだろうと思うのです。


そして、不十分なデータから導き出される結論というものは、どんなに科学的な手法を用いた研究をしたとしても、やはり、なにかしらの問題があると考えた方が適切でしょう。


もう一度、最初の方で提示した、エビデンスレベルの表を見てみます。




そもそも、研究の土台となるデータ収集に用いられる評価表に問題があると考えられるとすれば、この表のエビデンスレベルの”高"と"中"はあり得ないと云うことになりますね。


どうなんでしょうね?


と。


一応、疑問形で投げかけるような終わり方にしてみました。

(^_^;)


ただですね。たぶん、こんなことを考えておられるかたは多かれ少なかれおられると思うのです。

病院で勤めていると、こんなことを言ったら病院の評価が下がったり、もしかすると厚労省に目をつけられたりして監査で大変な思いをすることになるだろうと予想されるので、意識に上らないようにされていたり、そう思っていたとしても表で言えないようなお話かも知れず、心の中の奥底の箱の中に厳重にしまい込んでしまっておられるのかも。


まぁ、考えておられるかたが僅かでもおられたとして、だけどこう言ったことを表出できない状況におかれていることも推測できますので、だったら、保険医療体制から完全に離れた立場の私が書いてみようかと思い立って、書いてみた次第です。



あ、それと。賛否は当然あると思います。

どうぞ、ご自身の頭のなかで色々と思考をめぐらせてみてくださいね。



最後に。

最近読んでいる本に書いてあった一文を紹介します。

アインシュタインが言ったとされていますが、本当はそのソースが無いらしいです。

「物事は出来るだけ単純にすべきだ。しかし、単純化してはならない」

アインシュタインで無いとしても、面白い言葉ですね。

研究に際して物事の不要な要素を削って単純に見ていくことは必用なのだろうとは思います。しかし、単純化というのは本来ある複雑なものを単純に見える様に変えてしまうことなんだと思うのですね。

それでは元々あったものと違うものなのです。


これらの評価。脳損傷によって引き起こされる様々な現象を単純にした物なのか。それとも単純化したものなのか。

一度考える必要があると思いませんか?


(*^_^*)







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