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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

統合失調症の病態心理−その1

縁あって、この本を紹介されました。

興味もあって、チョット読み始めたのですが、自生体験で早速行き詰まって考えてみたのです。




精神科においては、精神というものを対象に医学を構築する必要があるかと思うのですが、精神~心というのは所在が明らかなものではありません。

心と言われるものの所在は現在わかっていません。しかし、脳の情報処理によって成立していると考えられて入るはずなのです。

そのような状況において、精神とか心という概念にフォーカスを当てざるを得ない精神科医療においては、どうしても科学的と云うより文学的な印象が拭えないように思います。

そんな中、中安先生は病態心理という言葉を用いて、病態を捉えていこうとされているのでは無いかと感じます。それは、精神医学から文学的な要素をできるだけ排除して科学的に症状を捉えようとする試みなのだろうと思います。


現在、脳科学の分野において受動意識仮説という仮説がよく言われています。これによれば、意識というものは脳の情報処理の結果を受けて、最後に作られるものであるもののようです。

意志が行動を起こす動機になっているのでは無く、行動出力に関わる情報処理の結果が意識を作り出しているという見方をするようです。


例を挙げます。

1)血糖値の減少がおこり、身体に蓄えていた脂肪を分解してエネルギーを生成し、その際に出てくる遊離脂肪酸が血中に増えて摂食中枢が興奮した結果、摂食行動が引き起こされる。その摂食行動が引き起こされたという情報処理が起きた後に「お腹が空いたから食べ物を食べた。」という意識が生成される。

2)知り合いに、右手を挙げてと声をかけられた。脳の聴覚野に届いた言語がその意味を無意識下に情報処理し、右手を挙げるという運動出力が無意識下に生成される。その情報処理の結果、「友達に右手を挙げろと言われたから右手を挙げた」という意識が生成されている。

といった具合です。

脳にとって、こういった意味づけは大変必用なことらしく、あやゆることに理屈をつける作業をいつも行っているようです。


確かに、現在わかっている脳の情報処理システムを俯瞰してみると、こういった行動の選択については、ゾンビシステムと言われる無意識下の情報処理システムだけで起こすことが可能であることがわかります。


ただ、意識が必要ないと云っているわけではありません。

私見ですが、情報処理の結果生成された意識は言語、もしくは順序性や論理性を持った知覚として記憶されるはずです。その記憶は、無意識下に起こる情報選択に一定のバイアスを与えて、その人の経験に特有となる行動パターンを作り上げていると考えても矛盾は無いように思います。

意識が行動を起こすわけでは無く、無意識下に選択された行動や運動によって意識が生成される。その意識は記憶され、無意識下に起こる行動や運動の選択と云った情報処理に一定のバイアスを加えているのだろうと理解しているのです。言い換えると、経験の記憶が意識或いは意志そのものであると云うことになりますでしょうか。そして、そして個別性という多様性を持つ反応はこのような意識と云われる、無意識下に行動や運動にバイアスを与える経験の記憶~意識といった要素が必要なのであろうと考えているのです。



自生体験という言葉が出てきます。私にはなじみが無い言葉ですので、ネットで少し調べてみました。自生体験とは、勝手に何かが浮かんできて本来集中すべき事柄に集中できない状態を云うそうです。自分の意志によらずに体験そのものが勝手に生じてくると感じられるとも記載してあります。


受動意識仮説からこの自生体験を考えると、なんとも奇妙なことになりますね。


本来、様々な情報は結構勝手に浮かんでくるのです。

例えば、人は夢を見ます。夢の中では、視覚情報もあれば、音声情報もあります。夢の中の環境を認知して夢の中で行動選択をしているのですから当然ですね。

覚醒しているときにも、何かが見えた気がすることも多いですし、何かが聞こえた気がすることもあるでしょう。しかし、多くの場合、そういった情報は外的情報の方が強いので抑制されてしまいます。

また、思考についても何かに集中しないと行けないときに全然違う思考をしてしまったり関連の無い記憶が出てきてしまったりする経験は誰しも持っておられるはずなのです。


それを自分にとって環境適応に必要な情報として取り扱うためには、その勝手に浮かんでくる情報がその際の必要度によって選別されて、必要の無い情報は抑制され、必要な情報が優位になることになる必要があるのです。その必要な情報はまだ意識の上には上ってはおらず、その情報がおそらく左脳の言語領域周辺に送られることで意識として生成されるのでは無いかということになるのです。

身体情報などは頭頂側頭連合野にEfference copyが送られ、実際の感覚や運動出力結果と照合されることで身体保持感や運動主体感覚などを持つことが可能になるのですが、思考などについてはどのような回路網が働くかはよくわかってはいないのですが、実際に動揺のメカニズムが存在すると仮定すると、思考に対する主体感覚の喪失なども説明ができそうに思います。


そうすると、自生体験自体は異常なことでは無く、その抑制のメカニズムやEfference copyを処理する回路的な問題が生じた際に、自生体験が必要以上に知覚されたり、自身の情報処理として意識に上らせることが困難である場合に中安の云う、「状況意味失認」と云われる病態が生じるのでは無いかと考えることができるのでは無かろうかと思うのです。



その中には、自生思考、自生視覚、自生記憶想起、自生内言などに分類されるようです。


自生思考、思考が勝手に出てくるという意味なのでしょう。しかし、思考は勝手に出てくるものです。ふと思考していることは良くありますよね。思考を継続するか否かは環境状況に応じて抑制されたり、継続したりすることになりますが、そのためには環境情報を知覚していると同時に、なぜその思考が浮かんだかという理由付け(意識化)も必要になります。その理由付けのためには記憶が関与している必要があるのです。思考の領域が言語関連領域にあるとすると、言語関連領域とエピソード記憶領域が相互に情報をやりとりする必要があるのですが、大脳基底核皮質回路には辺縁系(辺縁、傍辺縁皮質、海馬、扁桃体)を起点とする辺縁系回路が形成されています。そして、大脳右記定格皮質回路は運動領域だけでは無く、言語野などにも接続されていて、様々な回路が並列的に情報処理をされています。

言語野と海馬を含む辺縁系は大脳基底核皮質回路でつながっていることになるのですが、この回路が機能しない場合を想像すると、無意識下に発声した思考が記憶と参照をされない~つまり自分で起こした思考であるという理屈が生成できないケースも想定ができるように思います。


あ、気がついたのですが、自生記憶想起や自生内言などもここで説明ができそうに思います。


取りあえず、自生体験に対してはこういった見方をしようと思います。

さて、これで先に読み進める事が出来そう・・・

(^^)

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