なんとなくですが、「随意運動」という言葉が、多くの人を意思が先行して運動(プログラム)を決定しているという勘違いを助長している気がするのです。
多くの学習された運動プログラムはほぼ無意識下に選択され出力されます。おそらく、高次運動野と基底核ループですでに選択された運動プログラムのEfference copyが左脳の言語領域付近に送られることで、その運動の意味づけをしていくことになる。
例えば、「喉が渇いたから水を飲んだ。」と思ったとしましょう。
実際は、脳はすでに水分が不足しているという情報をつかんでいて、水分を補給するための運動プログラムを選択し、実際の行動に移していく。その情報が運動出力と同時に左脳に送られ、「喉が渇いたから水を飲んだ。」と後から理由をつけてくる。しかし、脳の持つバイアスによって意思が先行して運動を決定したかのように感じてしまう。といった流れが脳の情報処理を考えると理にかなっているように思います。
例えば、言葉を考えてみても、多くの場合人と会話しているときに言葉の選択は自動的に起きていますよね。言葉を選ぶような意識が関わるときと言うのは、言葉が思い出せないとか、何かしら情報処理がうまくいかなかったときですし、意識的に思い出そうとしても、思い出せるときと言うのは様々な言語に関わるノードがつながっていくという非意識下のシナプスの連結によるもので、思い出そうという方向性は情報処理に与えることができたとしても、実際に思い出すのは非意識下の情報処理です。
ほら、思い出そうとしているときは思い出せなくて、諦めてほかのことをしているときにふと思い出す事って誰でも経験がありますよね。
後で思い出したときって、思い出そうという意識は無いですよね。だけど、脳はずっとその情報処理をし続けていて、やっと実を結んで言葉が意識という情報処理に上ってくるわけです。
運動もそんなようなものだろうと思うのですね。
ほぼほぼ無意識下に成立している。
だから、運動の回復を目標にするに当たって、意思をどのようにどこまで用いるべきかという問題はあると思うんですね。
日常的なリハビリテーションの場面で言えば、こちらの誘導や言語的な指示に対して、歩行がうまくなって足を降り出すことができて上肢もリラックスしているるけれど、意識(注意)が外れたらぶん回し歩行で麻痺側上肢がぐっと曲がってしまうとか。
ほら、リハビリが終わって、部屋に帰るときなんか。(^_^;)
自動化される段階になっていないと言うことではありますが。
原因はなぜ自動化されてないのかと言うところになりますが、そこには感覚情報処理と運動情報処理の協調の問題があるのだろうと思うのですね。大雑把ですけれど。
まぁ、脳の情報処理を見てみると、高次運動野と言っても運動処理にだけ関わっているわけではない(例えばF5領域のミラーニューロンは視覚情報に反応して運動出力に変換できます)し、感覚野も感覚の情報処理にだけ関わっているわけではない(例えば頭頂間溝野は一次運動野に直接投射している)ので、本来別々に考えるべき事では無いと思うのです。
ですので、本質的には感覚情報処理と運動情報処理を分けて考えるべきでは無いとは思ったりします。
そんな中で、そういった混沌とした関連性を、比較的ではありますが単純化していて良い図だなぁと思うのが、今回紹介させていただいた図です。
これは、ボバースの研修会で用いられていた視覚機能と運動出力の関連を書いたものを、読みやすいようにに書き直したものです。以前のことなので、記憶が曖昧ですが、もしかすると、言葉とかを少し変えているかもしれません。
それに今でもこのまま使われておられるのかどうかは知りませんが、私は好きだと言うだけです。
それぞれがそれぞれと関連し合いながら情報処理が行われていて、この図において運動プログラムは姿勢と視覚からの環境情報の中で選択されているだけであって、そこに意識の介在は無いですよね。
私の個人的な意見ですよ。
(*^_^*)
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