随意運動とは何なのか。
リハビリにおいて目標指向的アプローチの重要性がいわれています。
学習において目標が必用な場合がある事はあるとは思うのですが私たちの生活はすべて目標設定されているものなのでしょうか。
目標を設定して活動する場面もあるけど、目的も無い状態で活動する場合も多いのではないかと思うのです。
(~しなきゃいけないと思いながら活動するのって疲れると思うんですよね。なんとなく。)
リハビリで何かを目標を設定した際、その目標に向けて何かをしようとすれば随意運動が必要になります。
では、随意運動とは一体どういった運動を指しているのでしょうか?
随意運動という文字を見ると、意思に随(したが)った運動という風に書かれています。
図のAに相当する順序ですね。
意思(の決定)→運動プログラムの生成→運動実行
設定された目標を達成するように意思を持って、その意思に随い運動を実行していく。
この流れはイメージがしやすいですね。
ところが、近年、意思を認識(意識化)する前に運動プログラムが決定されているという研究結果が出てきています。
これはリベットの研究に始まります。
これらの実験データとその解釈が正しいと仮定すると、二つの見方が出来ます。
1)実際に行われる動作(の多く)に自由意志というものは存在せず、人は脳の無意識下の決定を自由意思として認識している。ただしリベットは、自由意志の存在を説明するため、起こそうとした行動をキャンセルできるという結果を実験で証明して自由意志の存在があるとしています。
2)そもそも脳の決定自体がその脳の持つ自由意志であり、意思として意識が脳の決定を認識するのが少し遅れているだけ。
これは臨床的にはわりと納得のいくものであったりするのです。
前頭葉や基底核などの損傷で意識的ではない合目的性を持った運動が出現することがあります。
たとえば強制把握・道具の脅迫的使用・拮抗失行・運動の保続・舞踏病などの身振りなんかはそうだと考えています。
これらは意識して起こす運動ではなくて、意識に上らないけど実行してしまう運動の類いです。
ということは、前頭葉〜基底核あたりの情報処理では運動や行為を選択する意思決定のシステムがあるけれど、それは意識に上らない情報処理である。もしくは意識の上らない情報処理もある事になります。
ということは意思決定を意識に上らせている、或いは意思を認識するためには別の情報処理が必用であるということになります。
このことについていろいろ考え、いくつかの論文、本などに目を通しているのですが・・・
結論的にいえばこういった問題は「意識のハードプロブレム」として取り扱われ、現在では解が無いようです。
(ソフトプロブレムという表現もあって、たとえば頭頂連合野~前頭葉がどのように行動決定をしているかなどの回路的な処理システムを指すようです)
随意運動とは・・・
意思が行為を決定させるという認識であればわかりやすい言葉ではあるけれど、行為が決定された後に意思が認識されるのであれば何か違う感じがするかもしれませんね。
リベットの研究から導き出された結論は、
運動プログラムの生成→意思(の認知)→運動実行(図B)
というものです。
自由意志で運動が実行されているのではなくて、脳が(環境適応のため)運動プログラムを生成していて、その後に意思が認識されるため、意思は脳の決定に操られているということになるようです。
私個人は、先にすこし書いたように意思というものも脳の表出する情報処理であると思うので、脳の決定をすこしタイムラグが起きて認識していると考えれば最初の運動プログラム自体も人の脳の持つ自由意志であると思うのですけれど。
ただ、この運動プログラムに対して意思が介入することは出来るようで脳の出した運動プログラムをキャンセルすることは出来るようです。おそらくプログラムの変更も可能だと思います。
運動プログラムの生成→意思→運動プログラムの変更→運動実行(図C)
意思によってプログラムに変化を与えることが出来るのであれば、運動プログラムの生成が先行するとしても運動プログラムの生成と意思は相互的な情報交換をしていて、その結果で運動出力をおこしているともいえますね。
話は少しそれますがこの運動プログラム-意識-運動実行の順序はボバースコンセプトで用いられる手技の一つのプレーシングのメカニズムを部分的に説明できそうな話でもあって、ちょっと面白いと思っています。
さて、ここで私が重要だと思うのは意識をしない運動も意識をした運動も、いずれにせよ運動プログラムが真っ先に生成されているという点です。
繰り返しますが、意思が先行しているわけではないのです。
運動プログラムの生成には様々な情報を収集した頭頂連合野と前頭葉との相互接続などによってなされるのですけれど、(認識された)意思より先行して固有受容感覚によるボディースキーマなどの情報と前頭葉との情報交換によって運動プログラムが生成されているのです。意思がその後に認識されているのであれば、意思の運動プログラムへの関与は最初に起きたプログラムがベースです。
つまり運動は体性感覚を含む多重感覚入力によって運動/行動プログラムが生成されているので、ここに問題があれば最初に選択される行動や運動プログラムに制限が加わることになるということになります。
この初めの運動/行動選択を変化させるためには固有受容感覚を通したアプローチが必用だという結論が導かれると思います。
臨床的には、どんな目的を持った複雑な課題であったとしてもその中の運動の要素は運動プログラムが先行しているわけです。ですので課題を先行させ手順を学習させていくことも大切なのであろうと思うのですが、それ以上に自動化された動きの選択性の幅を広げ、どのように課題に対して適応するのかといったことを多彩な運動パターンの中から脳に選択させていくプロセスが多様な適応性をつくっていくのでは無いかと思うのです。そのために、プレーシングなどを利用しつつ固有受容感覚へ徒手的に介入して様々な課題に対して手や足の動き、自由な重心移動を保証できる脳-身体の関連性に気付いていただけることが出来るのであれば。
それこそが環境に対する適応性を高めることに繋がると考えています
あ、目標が必要ないと言っているわけではないのですよ。
人の行動や運動の選択はいろいろありそうだから、それを踏まえてほどほどがいいんじゃないのかと思ったりはするけれど。
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