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執筆者の写真Nagashima Kazuhiro

障害とは何か



東京大学大学院教育学研究科バリアフリー教育開発センターの専任講師を務められておられる星加良司という人が書いたものです。

星加さんは、5歳の頃に失明をされておられます。視力障害を持つ当事者と云うことにはなるかと思います。


さすがと云いますか・・・

東京大学で教鞭を持つ人です。日本語で書いた本ではあるのですが、非常に読むのが難しいのです。

私の乏しい読解力で理解できる範囲でということにはなりますが、この本に書かれている障害とは何かと云うことと、それに対して、私が何を感じたのかと云うことを少しだけ書いていきたいと思うのですね。


まず、読み始めて私が抱いたのは違和感でした。

障害というものには、医学モデルからの視点と社会モデルからの視点があるようです。この本は、社会現象としての「障害」をどのように捉えるのかと云うことが主題ですので、そこに起因する違和感なのであろうと思うのです。私は長期間医療の世界で働いていたので、医学モデルから障害というものを見るバイアスが強いのかもしれません。


社会モデルから見た障害とは何かという論議は古くからされているようです。どうやら、社会的に解消可能、あるいは社会的に解消の可能性ので在るものは障害では無いという考え方に成り立っているようです。

「社会モデルは、社会が障害を負うべきだと言い、社会が補うべき障害の側面や範囲をディスアビリティと呼び、補えない部分をインペアメントとした。」(石川 2002)

ということです。

これは、個人モデルがディスアビリティ解消のための負担を個人に課す枠組みであるのに対して、「社会モデル」はその責任を社会に投げ返したという点に認識の転換を図ったものだと言うことらしいです。


ちょっとこういった概念的なことだけだとわかりにくいですよね。

これを質問にすると、ちょっとわかりやすいように思います。

これは原因帰属を巡る認識論として理解するため、オリバー理論の検討が行われたそうです。1980年代に行われたOPCS(国民統計局)の調査からの質問です。

本文より引用します。


質問1)

OPCS「あなたの具合の悪いところはどこですか?」

オリバー「社会の具合の悪いところはどこですか?」

質問2)

OPCS「なたがものを持ったり握ったりひねったりすることを困難にしているのは、どんな病状ですか?」

オリバー「あなたがものを持ったり握ったりひねったりすることを困難にしているのは、瓶・やかん・缶等の日用品のどんな欠陥ですか?」

質問3)

OPCS「あなたは、主に聴覚に問題があることで、人々の言葉を理解するのが困難ですか?」

オリバー「あなたは、人々があなたとコミュニケーションをとることができないことで、人々の言葉を理解できなくなっていますか?」


こういった質問の例示が10問記載してあります。


社会モデルの障害というものをどのように捉えようとしているかが少し理解できる様に思いますね。


片麻痺に例えると、麻痺足下肢の動きが悪くて歩行ができないのでは無く、靴の性能が悪いので歩行ができないと言うことになるでしょうか。つまり、もしかすると、装具を利用すれば歩行ができるという事は、社会モデルにおいては装具という靴の性能があれば歩行が可能であるので、障害にはならないと云うことになるのかもしれないですね。


仮に、それが正しい理解だとすると、FIMやBIの評価法は、もしかすると医学モデルあるいは個人モデルの障害と、社会モデルの障害をごちゃ混ぜにしている評価表だと言うことができるのでは無いかと思ったりします。

混在しているとすれば、それは、科学的な実験を行うメジャーとして用いる際には十分注意が必要であると言うことになるはずですね。

医学モデル、あるいは個人モデルにおいては障害と捉えられる部分が社会モデルでは障害では無いと言うことになるわけですから、障害が改善した(FIM、あるいはBIの結果が改善した)という結果は、どのモデルで改善をしたのかが示されるものでは無いと言うことになります。

そうして、障害が無いとされる人たちにとっても、例えば脳梗塞のように障害が人生の中途で生じた場合、それまで歩いた記憶というものは在るわけですから、その記憶と比較し、以前のように軽やかに歩くことができないという状況は社会モデルで言えば障害が無いとされたとしても、個人的には納得いくものでは無いだろうと思うのですね。


そういった意味から医学モデルの立場から言えば、社会モデルの評価というのはある種、欠陥があるような気がするのです。


ただ、それは社会モデルとしての障害の考え方が間違っているとか必要では無いと考えているわけでは無くて、それぞれ別々に考えるべきなのでは無いかと思うのです。


この本では、社会モデルによる障害をどのように考えるのかを論じた本ですので、私はこの本を読むに当たって、そういう部分に関する違和感を常に持ってしまい、読むのが非常に難しく理解もなかなか遅々として進まない感じだったのですね。

(^_^;)


障害を社会モデルとして捉えた場合、バリアフリーとかユニバーサルデザインとか言われるものは障害をなくすための一つの手段として捉えることができます。一方、健常者の脳活動においては一定のバリアが運動機能の維持や発達に必要であるという見方もできます。

そう考えた際に、一方的に社会としてバリアフリーとかユニバーサルデザインとかを提供していくと言うことはその社会にすむ人たちの運動機能を低下させる結果を招く可能性もあると思うのです。


どこでバランスをとるのかという問題はあります。

しかし、どちらにしても一方的な考え方はあまり良くないような気がします。


この本の中に、「青い芝の会」という脳性小児麻痺団体の話が良く出てくるように思います。おそらく、著者の思想に影響を与えているものと思うのです。様々な経過の中で彼らの行動綱領を作り上げたようです。

それは以下の通り。


一、我らは、自らが脳性麻痺者であることを自覚する。

一、我らは強烈な自己主張を行う。

我らが脳性麻痺者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。我らは、強烈な自己主張こそが、それを出し得る唯一の道であると信じ、かつ、行動する。

一、我らは愛と正義を否定する。我らは、愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる、人間凝視に伴う相互理解こそ、真の福祉であると信じ、かつ、行動する。

一、我らは健全者文明を否定する。

我らは健在者の作り出してきた現代文明が、我ら脳性麻痺者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、我ら独自の文化を作り出すことが、現代文明の告発に通じることを信じ、且つ、行動する。

一、我らは、問題解決の道を選ばない。

我らは、安易に問題解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。我らは、次々と問題提起を行うことのみが、我らの行い得る運動であると信じ、かつ、行動する。


これを読むと、以前Youtbeで話題になってしまった車椅子で電車に乗って駅の不備を告発したり、映画館で好きな映画を見ることができないと告発した人達のことを少し思い出します。

自己主張が強烈でしたから。

社会を変えようとされたのだろうとは思うのです。

しかし、社会というのは結局、人の集まりでもあるわけです。

そんな中で、相手のことを慮ることをせず、自分を慮って欲しいという意見をお持ちなのであれば、それは障害の有無にかかわらず、人として社会の不適応者と見られても仕方が無いのかも知れないですね。

少なくとも、社会に不適応な者である一面をお持ちだという事にはなりますでしょうか。


様々な迫害は在ったものと思いますが、彼女たちの主張のその先にあったのは結局人々からの強烈な拒絶であったように見えました。


そして、障害を考える上で、それが生得なのか、中途であるのかで社会モデルの中のディスアビリティもインペアメントも、医学モデル或いは個人モデルとしてのディスアビリティもインペアメントも変容してしまうのではないかという気がしているのです。


結局、障害という社会現象は私にはよくわからなかった・・・

ただ、障害という者の捉え方に多面性があって、それを知っておくことはリハビリテーションを行う上で、或いは様々なリハビリテーションに関わる論文を読む上で有益ではないかと云うことは言えそうだと思います。


皆さんもぜひ読んでみてください。

ただ、非常に読みにくいとは思いますけれど・・・

(^_^;)

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